「緩さんが間違っているなんて、嘘ですわよね?」
事件を撤回するなら、その罪は一人で被れ。それによって緩が周囲からどのような扱いを受けようとも関わりは持たない。
だがそもそも、撤回などは許さない。
せっかく追い払った大迫美鶴が、無罪放免で戻ってくるなど、華恩には耐えられない。
父親のいない、はしたない職に身を堕とした母親を持つ汚らわしい存在のくせに山脇瑠駆真の好意を独り占めするなど、身の程知らずが。このまま彼に蔑まされ、嫌われてどこぞへ消えてしまえばいいんだ。そのような扱いが、彼女には妥当だ。
「こんなお噂は、嘘ですわよね?」
「華恩様の質問に答えなさい」
脇の一人が厳しく咎める。
「本当なのか? デマなのか?」
「ボーッと突っ立ってないで、答えなさい」
畳み掛けられ、緩は慌てて口を開く。
「撤回などしません」
無意識だった。いや、条件反射と言うべきか。
華恩や他の生徒から無遠慮な視線を浴びせられ、緩は何も考えずにそう答えた。
そうだ。緩には考える余裕も、権利も与えられてはいない。
「殴られたのは事実です。撤回など、しません」
やや視線を落しながら続ける緩に、華恩はにっこりと笑った。
「あら、よかったわ」
そうしてまた一口。
「緩さんが嘘などつくはずもありませんのになんて失礼なお噂だろうと、私は本当に心配しておりましたのよ。緩さんのお耳に入りでもしたら、あなたはどんなに傷つくだろうと思いましてね。それに、大迫美鶴のような粗暴な輩が徘徊している学校など、心地良くありませんものね。周囲の方々がどのような事をおっしゃっても、撤回などなさる必要はありませんわ」
華恩の唇が三日月に歪む。
「正義が貫かれるのは、当たり前ですもの」
緩は黙って生唾を飲み込む。その態度に気付いているのかいないのか、華恩は片手を口に添えて笑う。
「山脇くんだって、ようやく彼女の正体がわかったのです。これで目を覚まされるのは間違いありませんわ」
「華恩様のお誘いを受けられるのも、間違いありませんわね」
取り巻きの一人がそう言って軽く頭を下げる。その仕草に華恩は満足そうに口の端をあげ、だがすぐに表情を曇らせる。
「それはそうと、山脇くんからのお返事はまだ?」
一人の女子生徒がまだだと答えると、華恩は不機嫌そうに眉を寄せた。そうしてカップを持ち上げ、一口含む。
「ひょっとしたら山脇くんは、今まで返事が遅れてしまった事を私にどう詫びればよいのか思案なさっているのかもしれないわね」
断られるなどという考えは思い浮かばない。
「お優しくて思慮深い山脇くんの事だから、返事が遅れて私を傷つけてしまった事に心を痛めているのかもしれない。いいわ、ちょっとあなたっ」
華恩に指差され、一人の女子生徒が立ち上がる。
「明日、山脇くんの所へ行って、返事が遅れた事など私は気にしていないと告げてきて。相手の憂いを取り除くのも嗜みの一つよ」
少女は無言で頭を下げる。その一部始終を、緩は黙って見つめていた。
「撤回など、できるワケがない」
テレビ画面を見つめながら、緩は知らずに呟く。
無理だ。廿楽の信頼をこれ以上損ねるような事など、絶対にできない。
でも、撤回しなければ―――
『諦めないで』
甘い声。自分を励ましてくれる、唯一自分を支えてくれる優しい存在。
学校から戻り、自分を煽る不安から逃れるようにしてゲーム機の電源を入れた。そのまま食事もせずに没頭する事、数時間。
枕元の可愛らしい時計が、午前四時を知らせる。外はまだ暗い。
『あなたが正しいと信じるのなら、私も絶対に諦めません。大丈夫。私はどこまでもあなたを信じています』
そうだ、私は正しい。
コントローラーを握り締めながら、緩は心に言い聞かせる。
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